あふれもの日記

日々浮かんでは消えていく思考を綴っていく

「自分が決めて自由になる」について

瞬間

それは突然にやって来ました。

父が亡くなり、チームの方から辞意を伝えられ、担当製品の仕事と体調のはざまでギリギリの精神状態だったときに、僕は新製品の立ち上げ会議に呼ばれていました。

その会議に呼ばれているメンバーには各担当分野のキーマンが選抜され、立ち上げる製品は将来の自部署の主力製品になると見込まれるものでした。

しかし、スケジュールが悪すぎました。

開発中の製品の立ち上がり時期と次期製品の開発時期に完全に重なっており、デスマーチの果てに中途半端なモノが出来上がるという技術者として不幸な未来が容易に想像できました。EXCELに三年をまたいで引かれた矢印の群れを前に、呆然としたことをよく覚えています。(会議の内容はよく覚えてないけど)

「40歳」というリアル

ぼんやりとEXCELを眺めながら、「三年経って40歳。こんな環境で仕事した40歳の自分に何が残るんだろう」という考えが浮かびました。

「40歳」という年齢に僕はひるみました。もう言い逃れのできない大人の年齢に。

上手くいけば役職に就けるかもしれないし、それなりの給料をもらえるかもしれない。

でも、やりたくない仕事と気の合わない人たちとの関係に気を病み、かといって転職する勇気も経験もなく定年までの年数を指折り数えているしょぼくれた40歳の自分が想像できました。

「このままじゃ僕はハッピーに40歳を迎えられない!!!」

大発見をしたような気持ちと視野が開けていくような気持ちが心を満たしていくのを感じました。

この日、帰宅して妻に「会社辞める」ときっぱり告げました。

妻は戸惑いつつも、いつもと違う僕の雰囲気に何かを感じたようでした。

この会議の3か月後。僕は本当に会社を退職し、別の会社で働くことになります。

未来の為に自分で決めた

振り返れば、この歳に至るまで自分で何かを決断して人生を生きてこなかったように思います。高校も大学も就職先も結婚も子育ても、何か「誰かのために」とか「誰かがこう言ったから」とかいうどこか主体性に欠けた決断をしてきました。

また、僕は過去に目を落とし自分の欠点や失敗を後悔しながら、自分に降りかかる厄介事に戦々恐々として生きてきたと思います。

今回の転職はまったく違いました。生まれて初めて自分の覚悟を以て自分で決めた事柄だと感じます。もちろん家族とも相談しましたが、常に僕が主体でした。

当然リスクはあります。メンタルに不調をきたしている人間は特に。

でも「自分が決める」ということが、僕に過去を捉え直し、未来を考える力をくれました。 

その結果、職務経歴書を書くときに自分が今まで得てきた知識や経験の価値に気付き、次に働くところでどのような技術と経験を蓄積し、将来のキャリアパスと人生について深く考えることができました。

実際に転職してからも、激務とビミョーな人間関係とぐちゃぐちゃのスケジュールの中で働いてますが、「自分が決めたことを達成して、何とか生き抜いてやる」という覚悟だけはあります。多少波はありますけど(汗)

自由を満喫したい

自分で決めることには責任が伴いますが、同時に自由もあることを学びました。

誰のご機嫌もご意見も伺う必要がないことがこんなに楽なのかと思いますし、自分が決めたことを変える自由もあるんだなと思うとさらに気が楽になります。

どうも子供の頃から責任や規範を殊更重くとらえがちで、自由というものがよくわからないままこの歳になってしまったように感じます。責任が全うできなかったり、規範から逸脱したりして叱責されることを恐れ、「枠から外れないように」と頑張って消耗してきました。

自由になってから、「そもそも枠にはまることがキライだったしニガテだった」という根本的な自分の性質に気付いて愕然としたりもしましたが、自分の性質が分かれば対処が出来て、自分の人生をよりハッピーに生きられそうな気がしています。

最後に

今でも僕の心や思考にある沢山の「枠」と葛藤する日々は続いていますが、「自分が決める」という今回の体験が少しずつ「枠」から自由になれる方に作用すればいいなと願っています。

僕が僕の人生をハッピーにしていく主役なのだから。

「安心したい」という気持ち

「僕は『安心な気持ち』を分かっていないのではないか?」

 

そんな疑問から始まった2019年。

昨年は会社(前職)との在宅勤務に関わるやり取りを乗り越え、父の死を乗り越え、転職を乗り越え、新しい職場への適応を乗り越えた。心の平穏からは遠い日々でした。

「せめて今年は少しでも心穏やかに過ごしたい」
ささやかではあるけど2019年に寄せる僕の切実な願いです。

そこでふと冒頭の疑問にぶち当たりました。

自分が何かを成し遂げたり、何かを乗り越えたりした時に感じるものは達成感や平穏に戻れた安心感でもなく、「何とか切り抜けた」という束の間の安堵感のように思います。

また、安心を得ようと何かを頑張れば頑張るほど自分の心は安心から遠くなるというジレンマを抱えてきました。(その辺の詳細は下記をご覧いただけると嬉しいです)

mybrainoverflow.hatenablog.com

最近「自分が何か行動しても安心を得られることはないのではないか?」と考えるようになりました。

自分が何か心の平穏を乱すようなものを速やかに察知し、どんなにうまく対処しても、得られるのは「僕の安全」です。

「安全だが安心ではない」と某有名政治家の発言が話題になりましたが、安心と安全は別物です。

「安全」はISO(国際標準化機構)により「ISO/IEC guide 51」という最上位規格で「受け入れ不可能なリスクがない状態」と定義され、安全を客観的かつ定量的に評価する様々な規格・標準が存在します。

定義にご興味のある方は以下をご覧ください。

 

  1. 「リスク」を見つける
  2. 「リスク」の大きさを評価する
  3. 「リスク」が現実のものとならないように事前対応する
  4. 「リスク」が万一現実になっても損害をなるべく最小限に留めるよう行動する

この1~4の繰り返しが自動車業界を始め、様々な業界で行われている「安全」への取り組みです。

僕はこれを仕事以外に自分のプライベートにも当てはめているように感じます。

何か「リスク」がないか常にアンテナを張り、適切な対応をできるように周囲を見ている状態は心の平穏とはほど遠いものです。

一方、「安心」はリスクと必ずしも連動しないし、とても主観的だと考えます。

ここまでは自分の中で何となく以前から答えが出ていました。

最近思うのは、「『安心』は他者との関係や環境から生まれるのではないか?」ということです。

  • 安心して話せる相手
  • 安心できる場所
  • 安心して眠れる環境
  • etc...

自分の責任で何かするというより、むしろ自分は責任から解放され、環境や他者から与えられるのが「安心」なのではないかと感じるのです。

育ってきた環境や今の自分の環境、自分を取り巻く人たちとの信頼関係といった、自分でコントロールするのが難しいけど、誰かと一緒に築くもの、誰かから与えられるものが「安心」の基礎となっているように感じるのです。

 

正直、今の僕には「何が安心なのか」ということがよくわかりません。

頭では色々考えるけど、実際どういう状態が「安心」なのかを実際に体験し、「安心」という言葉と結びつけないとわからない。

 

「安心を定義せよ」

何とも難しい命題ですが、僕がこれからの人生を少しでもハッピーに生きるために色々と取り組んでみようと思うのでした。

「今こそ哲学じゃない?」と思うことについて

人工知能やロボットが盛んに取り上げられているのを見て感じていることをタイトルにしてみました。

はじめに

2000年代に入り、IT革命に始まり、IoTやらIndustry 4.0、機械学習ディープラーニング人工知能、自動運転などなど技術革新に関してネタが尽きない時代になったな~と感じます。

エンジニアの端くれとしては飯のタネが尽きないことは喜ばしいことですが、ちょっとモヤモヤしてることを書いてみます。

身の回りの持ち物の変化

ここ5年くらいはエンドユーザが使う道具はそんなに新しくなっていないように感じちます。

  • スマホ:新しい機種が出て「8コアが~」とか「カメラが○○万画素」とか言うけど、スマホの使い方自体はそんなに変わってない
  • 電子マネー:普及してきたけど、ユーザにとってはテレホンカード(死語?)みたいなプリペイドカードが使い勝手がよくなったくらいじゃないかな、と感じる。
    (裏では色々なデータが収集され、商売のタネになっているのですが…)

もっと例は挙げられそうですが、僕らが使うもので劇的に新しくなったものが浮かばない。使うものを構成したり、作ったりする何かは劇的に変わってるのに何故だろう?と思うのです。

「ヒト」の壁は厚い

「見たこともないモノ」って使う側にとってはそんなに魅力的ではなく、むしろ胡散臭く見えるんじゃないかな?と推測しますし、作る側にとっても「想像できないものを作る」ということはあまり楽しくない気がします。

ドラえもんのように「あんなこといいな、できたらいいな」を実現してくれるものが一番魅力的だと思いませんか?今の技術は全てその心理を叶えてお金を稼いでいるといっても過言ではないと考えます。

もちろん、数学とか物理、医学の最先端の「想像できないもの」は未来を作る礎となる世界ですが、分かりにくいし手っ取り早くお金に変えにくいからお金を出し渋られる。昨今の科研費でよく議論になるパターンのやつです。

どんなに技術が発達しようが、人工知能がすごいことになろうが、「ヒトが理解しにくいもの」は多分そんなに普及しないと思います。誰も欲しがらないのですから。

ヒトあってこその技術

思えば、技術は「ヒトの繋がり」を通して発展してきたように思います。

  • 乗り物は遠くの誰かに会うために高速化し、快適化されていること
  • 電話もインターネットも「ヒトをつなぐ」手段であること
  • インターネットのつながりが、ヒトの知識や経験を時間や場所を越えて共有する手段となっていること
  • 「ヒトの経験が共有された結果」が、現在の「人工知能」と呼ばれる技術につながっていること

上記から推測するに、これから技術がどう発展していくかは、これからの「ヒトの在り方」にかかっていると僕は考えるのです。

また、今までの技術は「ヒトの問題を解決すること」に重きを置いていたようにも思います。ところが、思いつく問題が大概解決可能となってしまった昨今、エンジニアは「何を実現すればいいのか?」という迷いに直面しているようにも感じています。

原点回帰

「ヒトの在り方」について考えてきた学問こそが哲学であると僕は考えています。

色々なことができるようになって、色々なことを知ることができる。だけど、僕らが生きる時間と使える資源(≒お金や能力)は限られています。どんなにコンピュータや人工知能と呼ばれる技術が進化しても、これだけは今のところ変えることができないはずです。

  • 何に価値を置くか?
  • ヒトの豊かさとは何か?
  • 安全・安心とは何か?

このような問いに答える為には、技術者は哲学者であってもいいと思うのです。

また、歴史的にも科学技術は実証主義という哲学から生まれ、現在も変わることなく科学技術の基礎であり続けています。

「技術がヒトを豊かにする未来」を願うからこそ、原点に還って「ヒトの豊かさ」についてじっくり考えてみたい。

そんな気持ちが「今こそ哲学なんじゃない?」という考えにつながっているように思うのでした。

「不安な気持ち」について

昨年末、出張や帰省などで外泊が多かったり、仕事が多忙だったりしたせいか、新年早々どうにも調子が良くないです。

うつ病を発症して10年近くなり、リワークで復職訓練や心理療法を受けたこともあり、自分の漠然とした「調子が良くない」という感覚を掘り下げられるようになってきたと感じています。

今回の不調を掘り下げていくと「不安な気持ち」が強く作用しているように感じます。

不安と僕

「不安な気持ち」が強くなると、僕の場合以下のような身体症状や行動が出ます。

  • 胃の不快感と食欲減退
  • 心拍数が増加し、呼吸が浅く息苦しくなる
  • 筋肉の緊張による肩こりや腰痛
  • 睡眠が浅くなる⇒眠れない&起きられない
  • 頭痛
  • やたら喉が渇き、汗をかく
  • 脳が色々なことを考えて止まらなくなる
  • やたら仕事や掃除をしだす

どこかで「不安な気持ち」は身の安全がおびやかされているときの臨戦態勢や防御反応であるという文章を読んだことがある気がします(あいまいな記憶)。

とにかく、気力・体力は消費する一方で回復できなくなるので、日々の生活や仕事に支障をきたしますし、毎日を楽しく過ごすことができない。そこからさらに不安になるという負のスパイラルに陥ると一気にうつ病が悪化するのが僕の典型的な駄目パターンです。

不安をある程度緩和方法として認知行動療法(CBT)や薬物療法(抗不安薬)がありますが、不安を解消してくれるものではなく、あくまで不安を過大にとらえないようにしたり、悪化させたりしないための手段だと僕は考えています。

何とか「不安な気持ち」がどこかに行ってくれないかなと思いながら、なかなかうまくいかずに仕事のPCに向かう日々です。

安心してる?

「不安」の対義語をググると「安心」が出てきました。

今の状態も含めて、僕の人生で「安心」に過ごせた期間を僕はあまり思い出せません。

小中学校ではいじめにもあったし、高校・大学では学業が相当なストレスになっていました。就職してからは言うまでもありません。

「結婚して子供にも恵まれ、収入も得ているのに贅沢な」と思われる方もいらっしゃいますが(直接言われたこともあるけど…)、僕の中ではすべては砂上の楼閣であり、僕が何かを間違えれば全てが一瞬で崩壊してしまうと感じていて、すごく必死にそれらを守っている気がします。

家族を今より信頼していいと思うし、何か悪いことをしているわけでもないと思います。もっと周囲を頼ったり、自分を赦したりできれば安心できるのにと頭では考えます。

それでもやっぱり不安なのです。

きっと「安心」がどういう状態かを僕自身理解できていないのでしょう。

これからを少しでもハッピーに生きるために、今年は自分自身の「安心」や「心理的安全」について沢山考えたいと思います。

 

まずは、完璧主義を緩めるところ辺りから始めようかな…。

「2019年の過ごし方」について

永遠に続くかと思った2018年も何とか乗り切り、2019年を迎えられたことをうれしい気持ち半分、ホッとした気持ち半分という感じです。

2018年は父の入院、急死から始まり、在宅勤務をめぐる会社とのやりとり、自身の転職等々、枚挙にいとまがありません。

様々な考えが去来する中で、今日ふと思ったことを書き残しておきたいとおもいます。

僕についての振り返り

昨年の行動を通して、自分の傾向を振り返ってみました。

  1. 僕は、目立ちたがり屋で人に良く思われたいと考える傾向が強いです。その結果自分の体力・気力を超えるようなことを安請け合いしては自爆することが多々あったように思います。
  2. 負けず嫌いで、人と比べたり競争したりしがちです。「僕もできるようになりたい」「あの人が頑張るなら僕も!」とアクセルを踏みまくっては、体調を崩すことが多くありました。
  3. 怒られたり不機嫌にさらされたりすることがすごく怖いです。亡き父からもですが、就職してからも上司、先輩に随分と怒られました。とても落ち込みましたし、辛く悲しい気持ちになりました。怒られたくない一心で、自分で仕事を抱え込んではどんどん事態と体調が悪化させることが多くありました。

上記の3点から、「自分がどこまでできるか」という考えが抜けているように感じました。自分の力を過信し「ちょっと頑張ればできる」「怒られないようにこれくらいは頑張ろう」という行動が、自分の大きな負担になって壊れてしまうというパターンを繰り返しています。

「自分のスキルアップ」や「協調性」という点ではとても良い効果をもたらしていると感じますが、長く続けることは難しそうです。

今年の抱負?

今年は、日々の生活・仕事で「自分ができること」「自分が一日でこなせる量」をつかんでいきたいと考えています。この歳になって今更とも思いますが、転職して少し職場に慣れた今こそがちょうどよい時期のように感じています。

これからどんどん仕事を任されることが予想される今年、「これ以上は無理です」をきちんと伝え、「無理をしないで続けられるよう心がけること」は様々な面でとても大切なことだと考えます。

また、余暇を増やして仕事以外の自分を再構築したいとも考えています。

最後に

昨年はたくさんの変化の中で生き延びた年でした。

今年は昨年の変化をこれからを生きる力に変えていけるように、過ごしていけたらと願っています。

転職して良かったこと、大変なこと

外資系企業に転職してから何とか最初の5か月を乗り越えました。

何となく前職との違いや今の会社の仕組みが分かってきたので、今感じていることを雑多に書いてみたいと思います。

 

転職してよかったこと

同調圧力からの解放

上司が元々アメリカ拠点で働いていたやチームが急激に大きくなり国籍も前職もバラバラなので、「常識的に考えて」とか「暗黙の了解」みたいなことが全く要求されないし、意味をなさない環境にあります。

前職で「皆で頑張る」という名の同調圧力に辟易していたし、それに合わせることに消耗していた僕にとっては非常に精神的に楽になりました。

どこで何時に働いていようが、アウトプットが出て仕事が回っていればそれでいいというのは非常にシンプルで仕事に集中しやすいです。

グローバルに働いてる実感が大きい

開発チームとプロジェクトマネージャーは欧州、ソフト開発はインド、工場はアジア、コア技術は北米、顧客は日本、というように様々な国の人とお仕事する機会に事欠きません。

各拠点での地域性や仕事に対する取り組み方などがバラバラでとても興味深いものがあります。一応皆さん英語を話しますが、「日本人が話す英語」があるように各国で英語の話し方がまちまちなので英語のコミュニケーション力は鍛えられます。

職場ではフランス語が飛び交うなど英語以外の言語も勉強になります。

感謝される

きちんと仕事で結果を出したり、チームに貢献する為の提案をすると、「thank you!」と言ってもらえます。前職で仕事で感謝されたり、褒めてもらえたりすることはなかなかありませんでした。むしろ「できて当たり前」的な扱いが多かったように思います。

「ありがとう!」と言ってもらえるだけで結構気持ちよく仕事できるし、次にまた頑張ろうと思えるように感じました。

飲み会がラク

前職は歓送迎会、忘年会などで幹事をやらされたり、結構な額の会費を払わされたりと「飲み会」は何かと面倒なイベントでした。

今の会社は会社が企画する飲み会は庶務さんが手配してくれて会費もすべて会社持ち、場所もそれなりにいいお店という、前職から見ると別世界のような状況です。日本企業でもそういう会社はあると思いますが、「会社のイベントは会社持ち」という意識はかなり徹底されているように思います。

大変なこと

業務負荷が半端ない

僕のポジションが空席だったこともあり、今の業務負荷は前職とは比べ物にならないくらい高い状態になっています。自由には責任がつきものであるように、周囲(特に本体の欧州)からの期待値に応えていくことが求められます。

出来ない時は割と容赦ないし、かといって欧州は自分たちのペースを守ろうとするので、お客さんとの間に挟まれるとかなりしんどいです。

また、24時間世界のどこかの地域が動いているので、自分で線引きしないと「寝てる以外は働いている」という状況に陥るのでかなり気を付けています。

立場がめちゃくちゃ弱い

僕の転職先は日本にいるチームの立場が非常に弱く、海外チームに何かお願いしても相手にされない、約束も守ってもらえない、逆に無理難題を押し付けられるということがよくあります。

また僕が担当している製品の欧州チームは気位が高く、彼らのプライドを傷つけるようなことをするとエライ目にあいます。相手を立てながら英語で仕事をするというのはなかなか大変です…。

日本拠点がそれなりに開発能力があって、海外チームと対等に渡り合えるような会社ではこの点は多少マシになると思いますが、大なり小なり外資系である限り付きまとう大変さではあると推測します。

短期的なアウトプットを求められる

「まだ入社して間もないから…」なんて配慮は一切ありません。どんどん仕事は降ってきます。人数がそれなりにいれば、「なんでこれだけ人員がいるのにアウトプットがこれだけなんだ」と容赦ない言葉が飛んできます。

評価も基本的に一年刻みです。年功序列もありません。

「今年は準備の年だからアウトプットは見込めない」という場合にはよくよく上司と相談して、評価が自分に不利にならないように事前に交渉しておく必要があります。

英語が難しい…

英語と一言で言っても、エンジニアなので「日常会話」レベルでは仕事になりません。専門用語や独特の言い回しを覚えておく必要があります。

また、会社が業績の説明を四半期ごとに説明してくれますが、財務用語がわからないと何言ってるのかさっぱりわかりません。

また、日本企業を相手にしている外国人は日本人慣れしているので、英語もそれなりに分かりやすく話してくれています。外資系では一切そのような配慮がないので、日本企業で「それなりに英語が話せる」レベルではコミュニケーションに支障が出ることが多いと推測します。

最後に

転職して桁違いに仕事自体は大変になりました。

それでも僕の仕事のスタイルとの相性は合っているように感じます。

また僕の場合、転職前後の職場が2km程しか離れておらず、通勤に関する大変さは回避することができました。2時間通勤の職場に転職していたら、と考えただけでぞっとします…。

転職に伴う変化は想像以上に負荷がかかると身に染みて感じました。

特に、初めて転職するという方は環境・業種・職種の変化をなるべく減らした方がよいと個人的には感じています。

長文になりましたが、誰かの目に留まり、何かの参考になれば幸いです。

「休もう」

「自分の思い入れがあることを中断する」ということはとてもつらく、苦しい決断だと身を以て感じた経験があります。

 

だからこそ言いたい。

 

「休もう」

 

ネットの世界は「ライフハック」という名の人生の効率化についての話題と、主観に基づく「他人への批判」であふれているように感じます。

 

「休む」ということを最も深く考え苦しんでいるのは、他ならぬご自身だと僕は考えます。

 

理由や事柄にかかわらず「休む」とか「やめる」、「変える」という決断はとても勇気がいるし、迷い考え抜いた末の結論であることが多いように思います。

 

世界は人に「勤勉さ」や「努力」、「献身的であること」を求めます。

しかし、それに対する報酬を得ることができる人は限られているようです。

 

自分を守る最後の砦は自分自身であり、自分を留め置いたり、自分を前へ押し出したりした結果を引き受けるのも自分自身だと考えます。

 

発破をかけた周囲は自分に降りかかる結果を一緒に背負ってくれることは稀です。
(もし、一緒に背負ってくれる人がいるなら大切にしてください)

 

だからこそ、「休もう」と僕は言いたい。

 

今休むことが未来の自分への投資、今までの自分へのいたわりだと信じて。

 

今日一日、今の一時間。

 

休もうよ。

 

休むといっても安静にしている必要はない。

自分が今やりたいこと、欲しいものに耳をすませて聞いてあげてほしい。

 

たとえ、そのことを誰か(とても信頼している人だとしても)が批判するのなら、

 

「ああ、自分の力不足ですよ、すいませんねえ」

 

くらいに受け流してほしい。

 

ここで書くほど容易いことではないことは理解しているつもりです。

 

でも、自分を支え、奮い立たせるのは他ならぬ自分自身だと僕は学びました。

 

こんな僕からあふれ出たこの文章が誰かのお役に立てるのであれば、「あふれもの」冥利に尽きるという気持ちがします。