あふれもの日記

日々浮かんでは消えていく思考を綴っていく

エンジニア経験に関する僕の本音

やたらテクノロジーにあふれる夢を見たので走り書きしてみます。

僕がエンジニアとして感じたこと

僕は技術が好きでエンジニアになりましたが、実際に技術を生業とするようになってからすごく息苦しさを感じるようになってきました。

「エンジニアは自らの技術を以って世の中がハッピーに貢献するのが使命」というのが僕の持論です。じゃあ、実際の仕事はっていうと「とにかくモノを完成させろ」っていうが主になってきます。

もちろん「モノを売って稼ぐ」とか「社会の発展に貢献する」っていうのが目的はあって(あるはず…)、経営者は決算資料とか株主総会とかで、ビジョンあふれる華々しいことを言うんですけど、自分の会社に戻ると「とにかく完成させろ(でも何が完成かは定義されてない)」ということをミッションにしちゃう。経営層から管理職への伝言ゲームの過程でそうなっちゃうのかもしれないけど。

でも、「どう見てもビジネスとして成り立ってないよね?」とか「これ作って誰がハッピーになるの?」「これ一発ものの技術だろうな」とか、「スゲー忙しくて自分が全然ハッピーじゃない」とかいう出来事に毎日遭遇します。

それなのに、末端のエンジニアは「なぜ技術が完成しないのか?」ということを顧客・上司から詰められながら仕事する訳です。

これがチョーつまんない。

疲弊してきたエンジニアはどんどんやる気を失って、新しいことにチャレンジすることより、すぐ結果が出て評価されやすいトラブルシューターになっていく。

トラブル解決も大切なことです。大概緊急度も高いですし。想定外のトラブルなら仕方ない。でも、僕がいた職場では予防できたトラブルがあまりにも多かった(マネジメントの問題も含めて)。トラブルの多い職場は疲弊してるし、ピリピリして皆さん不機嫌。

僕はトラブルを予防する側の仕事をしてましたが、根本的な解決策の提案を「直接口頭で伝えてもスルー」され、お願い事は一切聞いてもらえず、困ったときだけ仕事丸投げされてました。しかも給料も上がらない。

チョーむかつく。

この辺が原因の一端となってメンタル壊したり、今回の転職(後日まとめるかも)に至ったりする訳です。

技術は目的ではなく手段

なんか管理職層に多い感じがするんですが、「この技術が完成すれば、いい未来が待ってる」っていう物言いをしてくる人にものすごく違和感をありました。大体この手の物言いをする人は技術を完成させるまでの見積もりがすごい甘かったり、具体的な検討をしていなかったりすることが多かったせいもあると思います。

僕はこれに真っ向から反対で、何か実現・達成したい未来のために、技術を選択し、成熟させていくべきだ」という立場です。様々な組織形態・文化と様々な技術・開発手法の組み合わせ中で「これをやったら必ず成功する」ということはまずないはずだと考えるからです。(「必ず失敗する」というのは悲しいことに沢山ありますが…)

変化の激しい現代でそこを取り違えてビジネスしている組織にいる限り、自分が目指すエンジニアにもなれないし、デスマーチで使いつぶされると強く感じました。

エンジニアがこの先生きのこるには

エンジニアの需要が多く、年金も退職金も大して期待できないご時世で「我慢して働き続けるメリット」より「合わない組織で人生を浪費するデメリット」の方が大きくなったと感じています。

そうすると「転職」の話になる訳ですが、実際に転職活動をしてみて、エンジニアは自分の日々の仕事の中で、

  1. どこの会社でも使える技術を沢山知っておく
  2. 業界や最新技術の知識
  3. 語学力・プレゼンスキル

などをすごく意識しておく必要があると感じました。毎日忙しいんで心がけるのは大変なんですけど…。

でも、少なくとも1は自分の仕事が基になりますので、自分の仕事がどの分野の技術に結びつくのか、どういう応用が利くのかということを日頃から意識しておくといいように思います。

最後に

転職活動で経験年数を気にする方・企業が沢山いらっしゃいますが、経験年数についてやたら質問してくる企業は個人的にはあまりおススメしません。

その企業が本当に欲しい技術力があるならそこを突っ込むはずですので、経験年数にこだわる組織は年功等で組織が硬直化しているか、技術力を評価する文化を持っていない可能性があると思います。

経営層が数千万とかの報酬もらって2年とかでガンガン入れ替わってるのに、末端エンジニアが安月給で長く会社に在籍しなきゃいけないなんて理不尽だと思いません?

「メテオフォール型開発」について考えてみた

メテオフォール型開発

 

今の会社のヘボさを嘆いていたら、とても面白いブログがTwitterで流れてきました。

eiki.hatenablog.jp

めちゃくちゃ笑いました。

笑ってる場合ではないのですが、まさに僕の部署もこんな感じで共感しました。

その後、「なぜ神が君臨し続けるのか?」とふと考えたら意外と根が深そうな話に思えてきました。

神の遣いの存在

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神の遣いが神の声を届けることで、民に神の意思を伝え、民を動かす。

時に神の意思を先回りし、神の思し召しに応えることもある。

大抵、神の直属の部下。

権力との結びつき

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権力は神と結びつき庇護することで、民を治めようとする。

民が神を葬りさることを防ぎ、仮に葬り去られた後でも新たな神として君臨する。

大抵、神の上司。民からは雲の上の存在。

権威づけ

 

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神にまつわる逸話、資格、年功序列などで民に神が偉大であることを受け入れさせる。

メテオフォール型開発の神の場合、民の希望とミスマッチしていることが多い。

熱心な信者の存在

 

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神の声に高い共感を示し、他の民に神に仕えるよう勧めてくる選ばれし民。

神からの信頼は厚いが、他の民から「何やってんのかよくわかんないけど、やたら打ち合わせに来てアツく語る」と思われてることがある。

俗にいう「意識高い系」や「やる気だけはある人」が多い気がする。

(すべて個人的感想)

最後に ー 神との向き合い方

 「メテオフォール型開発」が日本独特かというと、僕は「No」だと思います。

ちょっと前ならスティーブ・ジョブズ、最近ならイーロン・マスクあたりはエンジニアにとって「神」的な存在だったと推測します。

自分と「神」との相性が良ければ、「メテオ」は「願いを叶えるきれいな流れ星」となるでしょうし、逆なら「地球を滅亡させる巨大隕石」となるでしょう。

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巨大隕石を前に神に祈りが通じるのを待つか。

「改宗(=転職・異動など)」して新しい神に賭けるか。

「メテオフォール型」からの脱却も、平穏なエンジニアライフの実現も、民にとっては険しい道であります…。

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「最近僕が疲れている理由」について

ものづくりのカイゼンについて

以前にもこのブログに書いた通り、僕は「仕事のやり方のカイゼン」や、「製品の安全を論証する」ことを主な業務とするエンジニアです。

ソフトウェアづくりのカイゼンを主領域にされる方々は「SEPG (Software Engineering Process Group)」と呼ばれ、最近はソフトウェア以外のシステム設計のカイゼンなども手掛けるようになっています。

 

すり減るココロ

そんな僕ですが、最近本気で転職を考えるくらい心身ともに疲れているのを感じます。

プライベートで父が急死したり、身近な方の訃報に接したりしたことも大きな疲れの要因だと思いますが、同僚の大量退職やスケジュールの遅延など職場もなかなか厳しい状況にあります。

こういう厳しい状況だからこそ、「カイゼンする意義が大きい」と感じるのですが、さっぱりカイゼンが進まない。どんなに働きかけても「のれんに腕押し」「ぬかに釘」状態。

働きかけ続けるのにも疲れてきています。

 

現実を見ない管理職vs.現実と闘う現場

「何でこんな状況になっちゃってるんだろう?」という問いの答えの尻尾をつかむ出来事がありました。

新しいプロジェクトを立ち上げる企画立案のメンバーとして選抜され、会議に出席した時のことです。

非常に野心的で新しい技術の良さを散りばめた資料とそれを語る管理職。

それらをとても冷ややかで当惑した表情で聞くメンバー(主に30代半ば)。僕もその一人でした。

出席した管理職は現在炎上中のプロジェクトには参画しておらず、次世代製品と経営層へのプレゼンが主な業務のようでした。

一方、メンバーは炎上プロジェクトの真っ只中で顧客や社内の他部署相手に奮闘し、日々吹き上がる炎を消火するのに手一杯。新しいことなんてやる余裕はありません。

歴然した温度差だけがそこにありました。

 

都合の良い現実しか見ない人達

会議が終わった後、余りの非現実的な内容に管理職に直談判に行きました。

「今の状況では、まともな企画が立案できません。まず部署が抱えている全てのプロジェクトの日程を整理しましょう。じゃないと新しいプロジェクトの日程なんて、きちんと考えられません。」

返ってきたのはつれない返事でした。

「その辺の調整は管理職がやるから。それに今管理職の間でも合理化の案出しをしてるから、まずは『あるべき姿』を作って」

 

「そんな姿も調整もないから、今のプロジェクトが炎上してるんですよ!現実を見てください!」

途中まで言いかけて我に帰り口をつぐみました。

 

相手は「自分達はちゃんとやっている」と言い張り、取り合ってもらえないと感じたからです。過去にも何度も同じ経験をしていますから。おそらく出席したメンバーも同じ経験をしているのだと思います。

自分達の都合の良いように現実を捉え、本当にカイゼンすべき現実から目を逸らしている。そして、結論は決まっています。

 

「現場が悪い」

 

ありのままの姿を受け入れること

『あるべき姿』から程遠い現実を受け入れない人達。

現実と闘い続け疲弊しきっている現場。

間に挟まれて、主張も聞いてもらえず当惑するカイゼンする人(僕)。

 

これこそが「カイゼンを阻む構図」であり、疲れの要因なのだと強烈に感じました。

 

自分自身や自分の組織の「出来ていない現実」を受け入れるのは、とても辛く大変なことだと考えます。

でも、その現実を心から受け入れずに劇的に状況がカイゼンすることはないとも考えます。

 

ありのままの姿を受け入れる必要があるのは、他の誰でもない自分自身だと強く思うのです。

「認知行動療法」について

何事もほどほどが肝要ということなのでしょうか。

認知行動療法」とは?

ちょっとググってみたのですが、分かりやすいサイトが見当たらなかったので、僕の理解をここに記載して、それを前提としてこの記事を書きたいと思います。

 

認知行動療法とは、治療を受ける人が持つ物事の捉え方のクセに気付くことで、出来事に対するストレスや感情揺れを軽減することを目指す。

その手段として自分の感情を客観的に分析し、合理的な対処の仕方を考える訓練を行う。

 

僕がリワークデイケアに通っていた頃に受けたプログラムで得た理解なので、そんなにずれてないとは思いますが、専門のサイト等も併せてご覧下さい。

 

「認知のゆがみ」とか「10の色眼鏡」、「自動思考記録表(コラム表とも言う)」などが認知行動療法を通じて学びました。

僕には「自分の感情を客観的に捉える」というのが新鮮でしたし、割とすんなりと受け入れ身に付けられたような気がします。

 

やり過ぎはよくない

僕は物事を考えたり、分析するのが好きなので、自分を分析対象にする認知行動療法は非常に沢山の気付きをくれました。

一方で、過剰に適応したようにも感じています。

何か感情が芽生えた瞬間に自分の思考がそれを「認知」します。そして、即座にその感情を分析し、論理的に処理してしまうので感情が抑圧されるようになりました。

だんだん心が冷えていくような気持ちになっていくのに気づいて、頭の回転を緩めました。

 

人間は感情の生き物?

感情の発露は人間の自然な心の動きです。良いも悪いもないはずです。

ただ、物事の捉え方や感情的になりすぎるのを調整するための方法が認知行動療法であり、感情を抑圧する道具ではありません。

当時僕に認知行動療法を指導してくれた臨床心理士さんにも言われました。

「感情や気持ちはそのままにしていいのですよ」と。

何より生活の中の出来事への心の動きすべてに認知行動療法のやり方を適用したので疲れてしまいました。

 

認知行動療法のお陰で、昔より物事を冷静に捉えられるようにはなりました。

次は心を少し自由にして、心身の負担を減らしていきたいなと思うのでした。

「時間」について

ホントは昨年末に思い浮かんだことだったのですが、ゲームにかまけてたら年が明けていた…。

 

いろいろな暦と日付け

 

世界には様々な暦(こよみ)があります。「西暦=グレゴリオ暦」が広く使われていますが、イスラーム暦や太陰暦、日本では元号などが用いられています。

どの暦を採用するかによって日付けが変わりますが、同じ暦を使っていても日付けが変わってしまうときがあります。最近ではサモアが記憶に新しいところです。(オーストラリアとの貿易の都合上、日付変更線の東側から西側に移動)

生まれたときから1月~12月、月曜~日曜という暦で生活してきて、当たり前のように暮らしてきていましたが、改めて考えてみると「世界の大半の人がこれに合わせて生活してるってなんだか不思議だな」と感じます。

変わらない「秒」

 

一方で、時間には厳密な定義があります。「秒」が基本となって時間は定義されますが、これは世界どこに行っても変わらない。「1秒」の長さは基本的には同じです。

かつての日本のように日の出から日没で定義される時間だと「1秒」の長さは季節によって変わります。しかし、国際的にこの方式を採用している国は僕は知りません。(もしあったら教えていただけると嬉しいです(汗))

世界中これだけたくさんの人がいて、様々な文化や個性を持っているのに、みんな同じ「1秒」を使ってるなんてすごく不思議ですごいことだな~、となんだか感心してしまうのです。

時間はちがう?

 

『ゾウの時間 ネズミの時間』という本があります。

その本によると、平均寿命×脈拍=心臓の鼓動の回数が大体同じになるんだとか。だから、寿命が短くてもその分活動的だから帳尻が合う、という話を聞い「なるほどな~」と思った記憶があります。(読んでませんが(汗))

だったら、ヒト同士でも違うんじゃないのかな?と考えてしまうのです。

ゆっくりしたヒトもいれば、シャカシャカ動くヒトもいて、違う時間を生きているのかもしれないな、と。

同じことの便利さと不便さ

 

「みんな同じ」というのはとても便利です。「日本標準時1月8日午前10時00分00秒」と言えば、時間はひとつに決まります。違う標準時を使う人も「日本標準時」から計算すれば、自分の使う時間で何日の何時というのが分かります。

これのおかげでみんなが待ち合わせできたり、出かける時間を決めたり、海外とも会議ができたりするのですから。

でも、ヒトそれぞれ特性や体調、加齢などがあって、「同じ状態でいられる時間」というのはすごく短いはず。というか、ない気がする…。

でも、みんなと同じ時間で動かないといけない。これってよく考えるとすごく不便。

今日は調子が悪いから早く帰りたい。逆に調子がいいからいっぱいやりたい。

もちろん、ある程度融通はきくけれど、限度がある。

一度しかない人生。みんなと同じように過ごせる時間はどれだけあるんだろう?

「同じ」から「違う」へ

 

残念だけど、僕は「みんなと同じように過ごせる時間」が終わってしまったように感じる。みんなと同じじゃないことってすごく不便だし、すごく大変だって身をもって知った。

それにすごく不安。

「みんな同じ」とか「あるグループでは同じ」ことが前提で世の中が動いてるな、って感じるし。

「みんな違う」ことが前提で動けたらいいのにな、って思うことがたくさんある。

それはそれなりに不便だと思うけど、自分と同じくらい他の人の「違う」も大切にしたいと思うから。

 

1秒の長さがそれぞれ違うことがあるっていうのは物理学でだって正しいんだから。

「今日思い浮かんだこと」について

まとまりのない文章の典型みたいになってしまった…。

考えるな。寝ろ。

 

今日の昼過ぎくらいに調子が悪くなってきて、いろいろと暗い考えが頭の中をぐるぐると回り始めた。

この間書いたしにたい気持ち、その後に受けたカウンセリングのこと、仕事のこの先のこと、明日からの泊りがけの研修を乗り切れるか不安だとか、もうほんと色々。

その時、「最近あんまり眠れてないな」と思ってそのまま寝た。

昼寝から起きてからめまいがしたけど、ぐるぐる考えて気持ちが落ちるより少なくとも1.1倍はよかったと思う。

とにかく寝てしまって辛い時間をスキップさせてしまった方が僕にとってはいいように感じた。

「本来」なんて存在しない

 

技術者を15年くらいやっててほとんどが品質とか安全とかを担当してたせいか、「本来あるべき姿」を目指すっていうのが染みついちゃってるんだな、って感じた。

「本来あるべき姿」じゃないから実現させようっていうのが技術だけど、それを自分に当てはめるとすごい苦しいなって思った。

「本来こうあるべきだった」「こんなはずじゃなかった」って考えると後悔や失望の波が止まらない。

 自分が考える「本来」なんてこの世に存在しなくて、周りの人や親とかから刷り込まれたことなんだと思う。そんなのと「今の自分」を比較しても、自分を貶めるネタでしかないんだって考えるようにしようと思った。

 今在る自分が全てでそれでいいんだよ、って考えられるようになるまで、多分相当な時間がかかると思うけど、やってみる価値はあると思う。そうなれればいいな、と思う。

元祖エヴァの最終回に思うこと(ネタバレあり)

 

 当時僕は14歳でシンジくんと同い年で、エヴァで描かれるシンジくんの姿と自分とを重ねてみていたことが多かったような気がする

 元祖エヴァは最終回でシンジくんが「僕はここにいてもいいんだ!」と言って周囲から「おめでとう」と祝福されるシーンで終わる。

 ロボットアニメを見ていたつもりだったのに、あまりの展開に当時の僕はポカーンとして、横で見ていた母は怪訝そうにしていた。

 今はその最後のシーンこそが「自己の受容」の瞬間を描いたシーンであり、「自我」が独り立ちした瞬間を描いているのではないかと感じるようになった。

 そして、僕はいまだに「ここにいてもいいんだ!」って思えていない。そう思えるまで、どういう過程を経ていくのか、どれくらいの時間がかかるのか想像もできないでいる。

待つこと

 

 自分の成り立ちとか周囲のこととかもう複雑すぎて、正直どこから自分を立て直していいのかよくわからないな、って思った。

 多分僕が抱える自身の問題は何かのきっかけや薬で劇的に改善できるようなものではないような気がする。

 種から収穫まで時間がかかるように、穏やかな時が過ごせるようになるのをゆっくりと待つしかない。

 種はまいた(と、思う)

 芽が出て、実がなりますように。

「しにたい気持ち」について

言いたいことも言えないこんな世の中じゃ、ポイズン。

原点

 

僕は明確に「しにたい」と考えた時期をはっきりと遡ることができる。

小学校4年生。10歳。ちょうどこのくらいの時期だった。

僕はいじめられていた。

今から思い返せば当時の僕は相当にクセの強い性格だったと感じるので、クラスメイトの反感を買うようなこともかなりあったのだと思う。

学校に行けば何をされるか分からない。

そんな僕に父は「男ならやり返せ」と叱咤し、母は「裁判の証拠にされたことをすべてノートに記せ」と諭した。

ついに僕はある日「学校に行きたくない」と両親に告げた。

母から返ってきた言葉をよく覚えている。

「ここで学校に行かなくなったら、いじめっ子に負けたことになるし、二度と学校に行けなくなるよ」

僕はしぶしぶ学校に行った。

そのころからマンションの柵から下をのぞいては死ねるかどうか考えたり、マンションの自室に首を吊る場所はないかと探すようになった。

本当にしにたかった。

でも、不登校になることもなく、環境にも恵まれ大学まで修了することができた。

晴れない気持ち

 

僕はそのころからずっと漠然としにたいと思いながら生きるという、生物としての矛盾を抱えながら生きてきた。

会社に行くときも、高いところを見上げながらしねる高さについて考えながら出社した日数も相当にあった。

実際にクレモナロープ(当時の2ちゃんねるではこのロープがおススメされていた)を探しに行ったこともある。しかし、どのロープも端っこが小さい輪になるように処理してあって、簡単には使えそうになかった。そして、体格が大柄だったので場所探しも難航した。

そんなことを会社のカウンセラーに話したら、産業医に筒抜けてそのまま休職を言い渡された。

そうか。しにたいと思うことはそんなに危険なのか、と妙に感心したものだった。

1年間の休養、1年間のリワークでの訓練を経て何とか復職する。

復職してから海外出張し、良い査定をもらい昇格もしたし、チームも与えてもらった。

でも、どうにもしにたいのである。

しななければならないような義務感と責任感のようなものがあるのかもしれない。

様々な気分転換を試したり、カウンセリングを受けたりしているが、どうにもしにたい気持ちにはあらがえないのである。

瀬戸際の日々

 

家庭を持ち、子供にも恵まれ、正社員として働いているし、住む場所もある。

恵まれているとは思う。

でも、心の中でしにたい気持ちが暴れるのを止めることができずに今日まで生きてきた。

生きてきたというよりしぬのを我慢してきたという方が僕の人生を正確に表現しているような気がする。

どんなに頑張っても、どんなに良い評価を周囲からもらっても、環境に恵まれても、僕が生きていていいと思えない。自分のことを拒否しているかのように。

何かのはずみで「僕はしななければいけない」という心の叫びが響きだす。

何とか薬で気持ちを鈍らせるけれど、それもいつまで続けられるか分からない。

今日を切り抜けたという安堵感にも似た感情を味わう暇もなく、次のしにたい気持ちがやってくるからだ。

まとめ

 

そんな僕だって心安らかに日々を過ごせるようになることを心から願ってやまない。

しかし、僕の行動や仕事、精神状態は真逆の方向に進んでしまう。

生きることを願う人がいるのになんて不謹慎な、と自分でも思う。

でも、そういう気持ちから離れられない。

そこに安息が待っているように見えてしまうからなのかもしれない。

 

生きることは大変なことだ。

僕がこの世に存在していい「根拠」を求めて今日も虚ろに天井を見つめている。