あふれもの日記

日々浮かんでは消えていく思考を綴っていく

「安心したい」という気持ち

「僕は『安心な気持ち』を分かっていないのではないか?」

 

そんな疑問から始まった2019年。

昨年は会社(前職)との在宅勤務に関わるやり取りを乗り越え、父の死を乗り越え、転職を乗り越え、新しい職場への適応を乗り越えた。心の平穏からは遠い日々でした。

「せめて今年は少しでも心穏やかに過ごしたい」
ささやかではあるけど2019年に寄せる僕の切実な願いです。

そこでふと冒頭の疑問にぶち当たりました。

自分が何かを成し遂げたり、何かを乗り越えたりした時に感じるものは達成感や平穏に戻れた安心感でもなく、「何とか切り抜けた」という束の間の安堵感のように思います。

また、安心を得ようと何かを頑張れば頑張るほど自分の心は安心から遠くなるというジレンマを抱えてきました。(その辺の詳細は下記をご覧いただけると嬉しいです)

mybrainoverflow.hatenablog.com

最近「自分が何か行動しても安心を得られることはないのではないか?」と考えるようになりました。

自分が何か心の平穏を乱すようなものを速やかに察知し、どんなにうまく対処しても、得られるのは「僕の安全」です。

「安全だが安心ではない」と某有名政治家の発言が話題になりましたが、安心と安全は別物です。

「安全」はISO(国際標準化機構)により「ISO/IEC guide 51」という最上位規格で「受け入れ不可能なリスクがない状態」と定義され、安全を客観的かつ定量的に評価する様々な規格・標準が存在します。

定義にご興味のある方は以下をご覧ください。

 

  1. 「リスク」を見つける
  2. 「リスク」の大きさを評価する
  3. 「リスク」が現実のものとならないように事前対応する
  4. 「リスク」が万一現実になっても損害をなるべく最小限に留めるよう行動する

この1~4の繰り返しが自動車業界を始め、様々な業界で行われている「安全」への取り組みです。

僕はこれを仕事以外に自分のプライベートにも当てはめているように感じます。

何か「リスク」がないか常にアンテナを張り、適切な対応をできるように周囲を見ている状態は心の平穏とはほど遠いものです。

一方、「安心」はリスクと必ずしも連動しないし、とても主観的だと考えます。

ここまでは自分の中で何となく以前から答えが出ていました。

最近思うのは、「『安心』は他者との関係や環境から生まれるのではないか?」ということです。

  • 安心して話せる相手
  • 安心できる場所
  • 安心して眠れる環境
  • etc...

自分の責任で何かするというより、むしろ自分は責任から解放され、環境や他者から与えられるのが「安心」なのではないかと感じるのです。

育ってきた環境や今の自分の環境、自分を取り巻く人たちとの信頼関係といった、自分でコントロールするのが難しいけど、誰かと一緒に築くもの、誰かから与えられるものが「安心」の基礎となっているように感じるのです。

 

正直、今の僕には「何が安心なのか」ということがよくわかりません。

頭では色々考えるけど、実際どういう状態が「安心」なのかを実際に体験し、「安心」という言葉と結びつけないとわからない。

 

「安心を定義せよ」

何とも難しい命題ですが、僕がこれからの人生を少しでもハッピーに生きるために色々と取り組んでみようと思うのでした。