あふれもの日記

日々浮かんでは消えていく思考を綴っていく

「時間」について

ホントは昨年末に思い浮かんだことだったのですが、ゲームにかまけてたら年が明けていた…。

 

いろいろな暦と日付け

 

世界には様々な暦(こよみ)があります。「西暦=グレゴリオ暦」が広く使われていますが、イスラーム暦や太陰暦、日本では元号などが用いられています。

どの暦を採用するかによって日付けが変わりますが、同じ暦を使っていても日付けが変わってしまうときがあります。最近ではサモアが記憶に新しいところです。(オーストラリアとの貿易の都合上、日付変更線の東側から西側に移動)

生まれたときから1月~12月、月曜~日曜という暦で生活してきて、当たり前のように暮らしてきていましたが、改めて考えてみると「世界の大半の人がこれに合わせて生活してるってなんだか不思議だな」と感じます。

変わらない「秒」

 

一方で、時間には厳密な定義があります。「秒」が基本となって時間は定義されますが、これは世界どこに行っても変わらない。「1秒」の長さは基本的には同じです。

かつての日本のように日の出から日没で定義される時間だと「1秒」の長さは季節によって変わります。しかし、国際的にこの方式を採用している国は僕は知りません。(もしあったら教えていただけると嬉しいです(汗))

世界中これだけたくさんの人がいて、様々な文化や個性を持っているのに、みんな同じ「1秒」を使ってるなんてすごく不思議ですごいことだな~、となんだか感心してしまうのです。

時間はちがう?

 

『ゾウの時間 ネズミの時間』という本があります。

その本によると、平均寿命×脈拍=心臓の鼓動の回数が大体同じになるんだとか。だから、寿命が短くてもその分活動的だから帳尻が合う、という話を聞い「なるほどな~」と思った記憶があります。(読んでませんが(汗))

だったら、ヒト同士でも違うんじゃないのかな?と考えてしまうのです。

ゆっくりしたヒトもいれば、シャカシャカ動くヒトもいて、違う時間を生きているのかもしれないな、と。

同じことの便利さと不便さ

 

「みんな同じ」というのはとても便利です。「日本標準時1月8日午前10時00分00秒」と言えば、時間はひとつに決まります。違う標準時を使う人も「日本標準時」から計算すれば、自分の使う時間で何日の何時というのが分かります。

これのおかげでみんなが待ち合わせできたり、出かける時間を決めたり、海外とも会議ができたりするのですから。

でも、ヒトそれぞれ特性や体調、加齢などがあって、「同じ状態でいられる時間」というのはすごく短いはず。というか、ない気がする…。

でも、みんなと同じ時間で動かないといけない。これってよく考えるとすごく不便。

今日は調子が悪いから早く帰りたい。逆に調子がいいからいっぱいやりたい。

もちろん、ある程度融通はきくけれど、限度がある。

一度しかない人生。みんなと同じように過ごせる時間はどれだけあるんだろう?

「同じ」から「違う」へ

 

残念だけど、僕は「みんなと同じように過ごせる時間」が終わってしまったように感じる。みんなと同じじゃないことってすごく不便だし、すごく大変だって身をもって知った。

それにすごく不安。

「みんな同じ」とか「あるグループでは同じ」ことが前提で世の中が動いてるな、って感じるし。

「みんな違う」ことが前提で動けたらいいのにな、って思うことがたくさんある。

それはそれなりに不便だと思うけど、自分と同じくらい他の人の「違う」も大切にしたいと思うから。

 

1秒の長さがそれぞれ違うことがあるっていうのは物理学でだって正しいんだから。