あふれもの日記

日々浮かんでは消えていく思考を綴っていく

「甘え」について

精神疾患や日本人の精神を語る際にしばしば登場する「甘え」とそれらに対する考え方について考察します。

「甘え」とは何か?

まず「甘え」「甘える」を語る上で言葉の定義を明確にする必要があると感じましたので、ネットで調べてみました。

あまえる【甘える】の意味 - goo国語辞書

「甘え」というのは他者との関係を前提にした言葉のようです。確かに「親に甘える」「(誰かの)好意に甘える」という表現があることからも、この言葉が持つ「他者の存在」を理解することができそうです。

「誰に」甘えてるのか?

一昔前のネットでは「うつは甘え」という言葉を頻繁に見かけましたし、僕が中学生くらいの頃、「日本人の精神構造は甘えによって成り立っている」という論説文が国語の教科書に載っていたように記憶しています。今でも「~は甘え」とか「自分は甘えているのでは?」という文章をよくネットで目にします。

しかし、これらの文章において「他者」の存在を明示されないことが多いように感じます。例えば、「企業における精神疾患による休職者の増加」についての記事であれば、「他者≒職場の同僚や会社の制度」というように文脈から読み取ることができますが、一般的に精神疾患、育児などに関して「甘え」という言葉が出てくる場合、大きく2つの「他者」が想定できると考えました。

① 他者=「自分」である場合

個人的な見解ですが、「社会」や「世間一般」に甘えているように論じている場合も含めて、これに当てはまる場合は多いように感じます。

この言葉には「自分は同じ境遇を耐えた」という背景か「自分はもっと辛そうな人を知っている」という背景のどちらかが存在します。そして、「だから我慢しろ。頑張れ」という考えが明示的、暗示的に存在します。

この考え方に則り「甘えない」を具体化すると、「書き手(話し手)が受けた、または知っている以上の苦痛・不遇・不幸を耐え、乗り越えなければならない」こととになります。これはどう考えても理論的におかしい訳で、呪いの言葉のようにすら聞こえます。

この場合、書き手の妬みや嫉みが含まれているか、強靭なスパルタ式精神の持ち主なので、気にしないか、メンタルが弱っているときは距離を置く必要がありそうです。

なお、「社会」や「世間」というのは言葉は、自分とは全く関係ない相手との関係性を自分の都合のいいように構築して論じることができる魔法の言葉だと感じています。

② 他者=「理想の自分」または「模範的な存在」である場合

この場合では、「甘え」という言葉は自分に向けられていることが多いです。

「今日は風邪で休んでしまった。他の人はこの程度できっと休まない。甘えてる…。」というような思考は典型例でしょう。

こういう思考の場合、「特定の他者」は存在しません。存在したとしても、ある限られた状況のことしか考慮されていない場合が多いように推測します。

この背景には、「良いとこ取りした他者」または「理想の自分」との比較があると思いますが、まずそのような存在自体がこの世界ではなかなかありえないでしょう。

また、この思考において今の自分は「ダメな存在」になりがちです。自分のことを受け入れられない気持ちが「今の自分は甘えている」という言葉に置き換えられていないでしょうか?

自分の思考や気持ちを正確に捉えることは精神衛生上とても大切だと考えています。問題を取り違えたら、解決策も間違ったものになってしまうからです。

一度、自分が「甘えている」と感じる状況を書き出すことも有効でしょう。そこに一定の傾向を見出だすことが出来れば、それに対処することで少しでも気持ちが楽になると思います。

最後に

「甘え 名言」で検索したところ、山のように「甘えるな」「甘えを捨てろ」という言葉がヒットし驚きました。

確かに長い人生において、自分を叱咤しながら課題を乗り越える時期もあるでしょう。しかし、ずっとそれでは疲れてしまいます。

私がネットで目にしたように「甘えるな」と言ってもらえる機会はいくらでもあります。だからこそ逆に、自分に対しては「甘えてもいい」という言葉をかけることで自分を守ることも必要なように感じました。

 

人間だもの