「節酒のしくみ化」について
これから年末にかけて一年間の溜まったストレスで酒量が増えそうな季節。僕なりに考えた節酒の工夫を技術者の視点を交えて記録します。
心がけに頼らない工夫を
飲み過ぎた翌朝。
「ああ、飲み過ぎた。今度は気をつけよう。」
そう思いつつ活かされない日々が続き、自分の不甲斐なさに気分が下がることも多くなりました。
日常ですら心がけを守れないヘタレな僕が、お酒を飲んで意志を強く持つなんてできるはずがない。飲み過ぎないような「しくみ」を考えないと駄目だ、と無駄にエンジニア的な思考に走ったら、色々と面白いつながりが見えてきました。
「お酒を見よう!」
最近、ビールや焼酎などを楽しむために、金属製や素焼きの酒器をよく見かけます。僕も頂いたビール用のステンレス製酒器を愛用していましたが、どうも飲み過ぎるのです。
原因を考えたときに、グラスにどれだけのお酒が入っているか見えないことに気がつきました。見えないので量が過ぎていても気がつかないのです。
ということで、ガラス製の透明なグラスに変えました。これならどれだけのペースで飲んでいるか一目瞭然なので飲み過ぎ防止に大きく役立っています。
「お酒を入れるな!」
僕の飲酒の傾向として、会話や手が空いたときにお酒を飲みがちということに気がつきました。そこで実践したことは「グラスに必ず氷を入れる」ということです。
氷の分、グラスに入るお酒は経るし、強いお酒も氷で薄まります。不思議なことに、氷が少しでも溶けて水を飲んでいても意外と間が持つものです。飲酒のペースダウンと酒量削減にも大きく貢献してくれます。
「人を頼れ!」
家族などに「今日はこれだけ飲む」とあらかじめ宣言して止めてもらうという人頼みのやり方です。お酒を飲んで緩んだ自分の意志を誰かに支えてもらうことも一つの手段だと思います。
客観的に酒量を見てもらうことで大きく逸脱した飲み方も予防できます。
「飲む分だけ買うべし!」
「なければ飲まない」、「買いに出るほどのマメさもない」という自分の性格を利用して、お酒の在庫を減らしました。
平日などは家にお酒を置かないことで飲酒できない環境をつくることで、一週間の酒量を減らすことができました。
「ゼロにせよ!」
これはまだ実践できていませんが、お酒をノンアルコール飲料に置き換えることです。
意外とお酒を飲んでる時のおつまみとか音楽とかを流せば、それなりに気分よく過ごせることが分かってきました。
ノンアルコールビール等の品質もよくなり、お酒を楽しむ雰囲気だけを味わうということもしやすくなってきました。
本当に必要なのはお酒ではなく、リラックスした心持ちなのかもしれません。少しでも置き換えながら、生活を整えて行けたらいいなと考えます。
最後に
上記の工夫を技術に置き換えるとどうなるでしょう?
「お酒を見よう!」→「見える化」
「お酒を入れるな!」→「機能安全」「機能縮退による安全状態の維持」
「人に頼れ!」→「第三者による監視と監査」
「飲む分だけ買うべし!」→「トヨタのカンバン方式(Just In Time)」
「ゼロにせよ!」→「リスクの排除」(工場の無人化など)
設計や品質、安全の考え方と似たようなことが節酒の工夫になることが分かりました。安全や品質の考え方と、普段の行動への対策はさほど変わらないはずですよね。
「報われないこと」について
自分の仕事歴を振り返って感じたことと、日頃の仕事の愚痴を徒然につづります。
「ものづくり」と「コトづくり」
僕は「エンジニア」である。一般的に「エンジニア」というと、IT系のSE(システムエンジニア)か自動車などの機械系のエンジニアかのどちらかを想像されるだろう。しかし、ものづくりに参加しない「エンジニア」だ。
じゃあ、何をしているのか。一般的に設計支援や開発支援といった「ものづくりの仕組みを作ること」と、「製品が安全であることを論証すること」が僕のミッション。
特に仕組みづくりは「コトづくり」と呼ばれることがある。「きちんとしたものを作るには、きちんとものを作るための仕組みづくり=コトが必要だ」という考え方がものづくりの基礎を支えているからだ。
人がやりたがらないことをやり続けるキツさ
僕の業務歴でものづくりをしていたのは1割程度。ものづくりは大変だったけど、コトづくりも大変だ。
- ものづくりに参加できないのでやりがいが薄い
- 業務遂行のために膨大な人や組織との折衝が必要
- 組織内で尊重されないことが多い
- 前例がないので、新しい知識を勉強し続けなければいけない
等々…。
日々納期に追われる組織の中で、「カイゼン」を呼びかけてもまず見向きもされない。みんな目の前の「ものづくり」を間に合わせることに熱狂しているから。
それに、人は「変わること」と「面倒くさいこと」が嫌いだからだ。
キツさの行き着く先
僕だって同じなのに、としょぼくれる心を奮い立たせてPCに向かい、何か作って見せる。でも見向きもされないか、何か怒られる。
さらにしょぼくれながら、本来自分の業務ではないところまでカバーする。今度は余計なことをしてくれるな、とまた怒られる。
努力しても報われないと急激にやる気を失う。でも仕事だからと色々な人に働きかける。しかし状況は変わらない。じゃあ、もっと頑張ろう。
その繰り返しの中で、僕の心は消耗していく。
最後くらいエンジニアらしく
変わるには力が必要だ。これは力学的にも大体正しい。
物事は変わるまいと抵抗する。これも力学的に大体正しい。
変わる気がない人を変えることは難しく報われにくい。これは力学的に…は説明できないな。
「うつ病になってわかったこと」について
早いもので、僕がうつ病の診断を受けてから9年が経ちます。この9年間でうつ病への理解やメンタルヘルスに関する施策が様変わりしましたが、なかなか治療中の個人の生の声を目にする機会は増えていないように感じます。
このブログに書いたことは僕のケースであり、百人百様の症状や困難があると思います。僕自身の9年間の棚卸しと、もし誰かの参考になればと思いブログにまとめることにします。
参考まで、厚生労働省のうつ病に関するHPのリンクを添付します。
眠れない日々
うつ病になってまず僕を苦しめたのは、睡眠がとれないことでした。人間眠れないと体力・思考力ともに急激に落ちていきます。
- 頭の中を色々なことが回って寝付けない。
- 夜中に仕事のことでハッと目を覚ましてしばらく眠れない。
- 毎日計ったように午前3時15分に目が覚めて眠れない。
- でも、朝は起きられない。
朝は墓場から出てくるゾンビのように布団から這い出て会社に行く。だんだんそれもできなくなっていく。睡眠不足による思考力低下で仕事も思うようにできない。そのことが気になってさらに眠れなくなる。
とてもつらいスパイラルでした。
本当に辛いのは「憂鬱」ではない
「うつ病の人」といえば、「いつも憂鬱で膝を抱えてどんよりしてる」というのが一般的なイメージとしてまだ根強いように感じます。もちろん、「憂鬱感」が主症状の方もいらっしゃるかと思いますので、間違いではないと思います。
ですが、僕を「うつ病」と知らずに僕と初めて会ったとすれば、僕のことを「うつ病患者」だとは感じないと思います。人前では「普通の人」を精一杯装うからです。「うつ病」だから「いつも憂鬱な人」ではないのです。逆に人前では明るく振舞います。それもまた自分の症状を悪化させるのですが…。
うつ病が深刻化して一番つらかったのは、「自責の念」と「じっとしていられないほどの焦燥感」でした。憂鬱感は抗不安薬で少しは落ち着きます。しかし、上記二つは僕に日々自殺の方法を考えさせるほどに僕を苦しめました。
「こんな自分ではダメだ。ここにいられない。もう死ぬしかない」
頭の中でこのような思考がずっとグルグル回ります。この症状は今も残っていますが、自殺企図や散財、過剰な飲酒などにつながるので社会的にも身体的にも自分にダメージが大きいです。
僕の私見ですが、病状が深刻だったり、原因が根深かったりするほどこの傾向は強いように感じます。
経過も人それぞれ
一般的にうつ病は、「急性期」⇒「回復期」⇒「再発予防」⇒「寛解(症状が収まること)」という経過をたどるようですが、僕のように慢性化するうつ病患者も少なくないように感じます。回復期と急性期を行ったり来たりという感じです。
僕の場合、未だに何が原因かはっきりしていません。原因が分からないので、これといった対処法もないという状態が続きます。
「うつ病は治る」とか「うつヌケ」とか一般的にうつ病は「治る」とされているのに自分は治らないという現実が、また一層自分の心を重くさせるのです。
時には昔の話を
うつ病にも「原因がはっきりしているケース」と「原因がはっきりしないケース」があり、僕は後者に入ると思います。
僕はうつ病になりやすい考え方や物事の感じ方、行動の仕方が知らず知らずのうちに身についているように感じています。認知行動療法で言うところの「認知のゆがみ」に当てはまりそうですが、自分でも無意識のうちにそのような思考形態や行動様式にハマっているので「認知」するのも容易ではありません。
僕は医学的なケアのほかに、心理学的なケアも必要だと感じカウンセリングを受けています。カウンセリングで過去の出来事を思い出しながら、自分の「無意識」に気付く試みをしています。非常に根気のいる作業ですし、即効性もありません。カウンセリング自体で過去の心の傷をえぐるときもあります。
しかし、過去の自分が築き上げた「何か」が今の自分を苦しめているとしたら、それにフタをしてもまた同じ苦しみを繰り返すだけだという考えが、カウンセリングの必要性を感じさせているのかもしれません。
カウンセリングについては、効果や受ける時期が人によって異なるため、主治医ときちんと相談することが重要です。
最後に
読み返して、まとまりのない文章になってしまったことに自分の未熟さを感じるとともに、今も試行錯誤している自分が浮き上がってきたように感じます。
「生き方を変える」という試みが、今のところの僕の根本治療のように感じています。
いつ変わるのか、変えられるのか。
「今でしょ」
「依存症」について
僕は時々頭の回転を止める為にパチンコをすることがあります。普段1円パチンコしかしないのですがたまたま4円パチンコをやる機会があり、その体験を基にこの記事を書くことにしました。
深刻に依存症に悩んでいる方には片腹痛い内容だとは思いますが、僕自身の体験をここに記述します。
「依存」と「依存症」
まず辞書での意味を確認します。
他に頼って存在、または生活すること。(デジタル大辞泉より)
意味としては理解しますが、私が感じた感覚とはちょっと違う気がします。
一歩踏み込んで「依存症」の意味を確認しました。
ある物事に依存し、それがないと身体的・精神的な平常を保てなくなる状態。(デジタル大辞泉より)
僕が感じた感情に近いように思います。僕がどのような状況にあり、どのような心境になったのかを記述したいと思います。
事の始まり
僕は当選率が低いギャンブル性の高い台を打っていました。普通なら大体これくらいで当たりが出るというレベルを遥かに越えて、全く当たらない状況にありました。
この時、自分の心に「当たるまでは止められない」というゴールを勝手に設定していました。このゴールの前には一万円札もちょっとしたチケットのような扱いになりました。
この日はたまたま当たったものの時間切れもあり、手痛い損害を受けたままとなりました。それでも自分の責任範囲で収まったこともあり、何とか気を取り直して帰宅しました。
動くゴールと止められない衝動
僕は翌日も同じパチンコ屋にいました。前日の景品を交換するだけのはずが、前日と同種の台で当選率が高い台を打っていました。
前日の負けを取り返そうとしたのです。
幸いにして前日の負けを取り返すことができたのですが、何故か止められません。
ゴールが「次の当たりを見ること」にすりかわっていたのです。もちろん変えたのは僕自身ですが、何かに突き動かされるように台から離れられませんでした。
最後は僕の微かに残った力でカードを抜き、それ以上打てないようにしました。そうでもしないと止められないような恐怖を感じました。
依存症は身近なもの
世の中には様々な依存症があります。そのいずれも最初はちょっとしたきっかけなんだろうと考えるようになりました。そのきっかけから自分のタガが外れ、依存症になるように感じました。
僕の今回の体験では、
「ちょっとやってみるだけ」
「当たるまでやる」
「負けた分を取り返す」
「次の当たりまで」
と変化していきました。
最初の軽い気持ちが、気がついた頃にはとんでもない方向に心が暴走しています。「次の当たりまで」なんて言ってたら、もう離れられません。
最後に
自分が報われた気持ちや普段の辛さを忘れさせてくれるものが依存症になりやすいように感じます。
普段何らかの辛さを抱えていれば、その辛さを忘れさせてくれるものが輝いて見えると思います。
「ちょっとだけ」
「これくらいなら大丈夫」
という気持ちになることも今回の体験で実感しました。そのような気持ちがコントロールできない状況も体感しました。
もし、本当にコントロールできなくなったら誰かに管理してもらう他はありません。不本意だとしても自己管理できなければ仕方のないことなのです。
今回の体験は非常に苦い体験でしたが、苦かったからこそ「良薬」にしたいと決意したのでした。
「甘え」について
精神疾患や日本人の精神を語る際にしばしば登場する「甘え」とそれらに対する考え方について考察します。
「甘え」とは何か?
まず「甘え」「甘える」を語る上で言葉の定義を明確にする必要があると感じましたので、ネットで調べてみました。
「甘え」というのは他者との関係を前提にした言葉のようです。確かに「親に甘える」「(誰かの)好意に甘える」という表現があることからも、この言葉が持つ「他者の存在」を理解することができそうです。
「誰に」甘えてるのか?
一昔前のネットでは「うつは甘え」という言葉を頻繁に見かけましたし、僕が中学生くらいの頃、「日本人の精神構造は甘えによって成り立っている」という論説文が国語の教科書に載っていたように記憶しています。今でも「~は甘え」とか「自分は甘えているのでは?」という文章をよくネットで目にします。
しかし、これらの文章において「他者」の存在を明示されないことが多いように感じます。例えば、「企業における精神疾患による休職者の増加」についての記事であれば、「他者≒職場の同僚や会社の制度」というように文脈から読み取ることができますが、一般的に精神疾患、育児などに関して「甘え」という言葉が出てくる場合、大きく2つの「他者」が想定できると考えました。
① 他者=「自分」である場合
個人的な見解ですが、「社会」や「世間一般」に甘えているように論じている場合も含めて、これに当てはまる場合は多いように感じます。
この言葉には「自分は同じ境遇を耐えた」という背景か「自分はもっと辛そうな人を知っている」という背景のどちらかが存在します。そして、「だから我慢しろ。頑張れ」という考えが明示的、暗示的に存在します。
この考え方に則り「甘えない」を具体化すると、「書き手(話し手)が受けた、または知っている以上の苦痛・不遇・不幸を耐え、乗り越えなければならない」こととになります。これはどう考えても理論的におかしい訳で、呪いの言葉のようにすら聞こえます。
この場合、書き手の妬みや嫉みが含まれているか、強靭なスパルタ式精神の持ち主なので、気にしないか、メンタルが弱っているときは距離を置く必要がありそうです。
なお、「社会」や「世間」というのは言葉は、自分とは全く関係ない相手との関係性を自分の都合のいいように構築して論じることができる魔法の言葉だと感じています。
② 他者=「理想の自分」または「模範的な存在」である場合
この場合では、「甘え」という言葉は自分に向けられていることが多いです。
「今日は風邪で休んでしまった。他の人はこの程度できっと休まない。甘えてる…。」というような思考は典型例でしょう。
こういう思考の場合、「特定の他者」は存在しません。存在したとしても、ある限られた状況のことしか考慮されていない場合が多いように推測します。
この背景には、「良いとこ取りした他者」または「理想の自分」との比較があると思いますが、まずそのような存在自体がこの世界ではなかなかありえないでしょう。
また、この思考において今の自分は「ダメな存在」になりがちです。自分のことを受け入れられない気持ちが「今の自分は甘えている」という言葉に置き換えられていないでしょうか?
自分の思考や気持ちを正確に捉えることは精神衛生上とても大切だと考えています。問題を取り違えたら、解決策も間違ったものになってしまうからです。
一度、自分が「甘えている」と感じる状況を書き出すことも有効でしょう。そこに一定の傾向を見出だすことが出来れば、それに対処することで少しでも気持ちが楽になると思います。
最後に
「甘え 名言」で検索したところ、山のように「甘えるな」「甘えを捨てろ」という言葉がヒットし驚きました。
確かに長い人生において、自分を叱咤しながら課題を乗り越える時期もあるでしょう。しかし、ずっとそれでは疲れてしまいます。
私がネットで目にしたように「甘えるな」と言ってもらえる機会はいくらでもあります。だからこそ逆に、自分に対しては「甘えてもいい」という言葉をかけることで自分を守ることも必要なように感じました。
人間だもの
「不安と憂鬱に対処すること」について
今、このブログを書いている僕自身が不安と憂鬱で押しつぶされそうになっています。自分の不安や憂鬱をなだめるために、この記事を書くことにしました。
辛いものは辛い
最近、とても憂鬱な気分が続き、仕事の不安も相まって非常に落ち込む日々が続いています。不安な気持ちや憂鬱な気分が晴れてほしい、と心から願っています。しかし、何かで「発散」しようとしても一時しのぎに終わるのがせいぜいで、その後さらに落ち込むことも珍しくありません。
生活に支障をきたす位の不安感や憂鬱感に襲われるのは辛いものがあります。「発散」してもうまくいかないのなら、別の方法で「対処」するしかないと考えるようにしてみました。
この記事では、自分が不安や憂鬱を感じている原因や対象を特定しようと試みることにします。
原因を特定してみる
一つ目は「天候」だと考えることにしました。梅雨でじめじめとしたこの季節。心身が健康な人でも不快に感じるのに、うつ病と長年付き合っている僕が太刀打ちできるはずがありません。おまけに、この記事を書いている時点で「台風3号」により気圧が下がっています。メンタルや頭痛に気圧の低下は大敵です。
これに対しては、部屋の環境を快適に整え、医師の指示通り服薬し、少しでも気分が下がるのを抑えることで対処することにしました。
二つ目は「調整役という仕事」です。これは断言できます。憂鬱で仕方ないです。
身近な人に嫌われることが怖い僕にとって、社内に無理をお願いすることで「嫌われたり、怒られたりするのではないか」という不安感と憂鬱感はかなり堪えます。
今までも板挟みに遭い、心が折れて休職を繰り返してきました。ただ、仕事においてこういう場面を避けて通れないし、もう休職を繰り返したくないです。
対策を考えてみる
そこで、被害を最小限に抑える対策を考えてみました。
①やるべき行動と問題を明確にして、不安や憂鬱を技術的な問題に置き換える。
②不機嫌は自分ではなく、僕が持たされている案件に向けられていると考える。
③なるべく相手に寄り添い、共感する。
④やるべきことは無心でこなす。
⑤ストレスが重ならないようにさっさと帰る。
感情を何とかするという漠然としたものより、技術的な問題や具体的な行動であれば僕のメンタルは耐えられそうだし、感情的な対立は避けられそうな気がします。
最後に
正直これらがうまく働くかはわかりません。これを書き終わった時点でもまだ不安や憂鬱感はあります。でも書き始める前よりかは幾分かマシになった気がします。
感情に真正面から向き合うより問題に向き合うことで、昔より一歩でも半歩でも先に進めるのなら、何とか取り組んでみたいと思います。
「ルーティン」について
数年前から野球のイチロー選手や水泳のマイケル・フェルプス選手など多数のスポーツ選手が取り入れているという「ルーティン」のについて考えてみました。
スポーツにおける「ルーティン」の意義
スポーツにおいては、コンディションを一定に保つことや、どのような状況下でも自分の能力を最大限発揮することが非常に重要です。
刻々とかわる試合の状況、プレッシャー、日々の体調、周囲の反応など、選手のパフォーマンスに影響する要因は沢山あります。それらに周囲に影響されず能力を最大限発揮させる手法として、「ルーティン」が構築されたようです。
「ルーティン」に着目した理由
そうは言っても、僕のような一般人にはスポーツ選手のような「ルーティン」を実行することは不可能です。日々トラブルやら突発的な出来事に追われ、そもそも同じ時間に寝て、同じ起きることすら難しい状況です。
でも、僕だって日常生活の様々な出来事に振り回されるのは避けたいところです。スポーツ選手みたいなレベルは無理でも、何か「エッセンス」を取り入れることはできないか、と考えるようになりました。
「逸脱」は不調のサイン
いつも通りにできなかったりやる気が起きなかったりする時、自分の調子がよくない時であることに着目しました。
メンタルが不調な時にまず苦痛になるのが、「入浴」、「歯磨き」といった自分のケアです。「風呂に入って、髪を洗って云々~」など、もう考えるだけでうんざりします。女性の場合、「化粧」や「化粧落とし」なども同じかもしれません。
でも、入浴しないと気持ち悪いですし、「清潔を保つ」という基本的な行為ができない自分に苛立ち、ますます落ち込んでいく。そして、他の事も出来なくなるという「負のスパイラル」に飲み込まれていきます。
「ルーティンを守る」のではなく、「ルーティンから外れていることに気付く」ことが心身の調子を整えるために役立つのではないかと考えたのです。
「代わり」を用意しておく
そこで「出来ない時」の為に考えたのが「サブルーティン」です。
「お風呂には入れなくても顔は洗う」、「歯磨きの代わりにマウスウォッシュで口をすすぐ」など、「出来ない時の代わり」を決めておきます。
「完璧ではないけど、何かできた」という達成感を持たせることで「負のスパイラル」から逃れる。また、「このくらいということは調子はかなり悪いな」という客観的な物差しになります。
普段の行動を思い出すのも良いように感じます。「○○が出来ない!どうしよう!」と焦りに飲まれるよりは「普段はこうしてたけど、今はこれが苦痛だな」と捉えた方が対策も打ちやすいように思います。
最後に
「いつも通りのことができない」というのは、想像以上に自分のメンタルにダメージを与えるように感じます。精神的に落ち着いているときに、「出来ない時の代わり」を考える時間を作ってみてはいかがでしょうか?
「1%でもできれば、やったことになる」し、「備えあれば憂いなし」です。