あふれもの日記

日々浮かんでは消えていく思考を綴っていく

「依存症」について

僕は時々頭の回転を止める為にパチンコをすることがあります。普段1円パチンコしかしないのですがたまたま4円パチンコをやる機会があり、その体験を基にこの記事を書くことにしました。

深刻に依存症に悩んでいる方には片腹痛い内容だとは思いますが、僕自身の体験をここに記述します。

「依存」と「依存症」

まず辞書での意味を確認します。

他に頼って存在、または生活すること。(デジタル大辞泉より)

意味としては理解しますが、私が感じた感覚とはちょっと違う気がします。

一歩踏み込んで「依存症」の意味を確認しました。

ある物事に依存し、それがないと身体的・精神的な平常を保てなくなる状態。(デジタル大辞泉より)

僕が感じた感情に近いように思います。僕がどのような状況にあり、どのような心境になったのかを記述したいと思います。

事の始まり

僕は当選率が低いギャンブル性の高い台を打っていました。普通なら大体これくらいで当たりが出るというレベルを遥かに越えて、全く当たらない状況にありました。

この時、自分の心に「当たるまでは止められない」というゴールを勝手に設定していました。このゴールの前には一万円札もちょっとしたチケットのような扱いになりました。

この日はたまたま当たったものの時間切れもあり、手痛い損害を受けたままとなりました。それでも自分の責任範囲で収まったこともあり、何とか気を取り直して帰宅しました。

動くゴールと止められない衝動

僕は翌日も同じパチンコ屋にいました。前日の景品を交換するだけのはずが、前日と同種の台で当選率が高い台を打っていました。

前日の負けを取り返そうとしたのです。

幸いにして前日の負けを取り返すことができたのですが、何故か止められません。

ゴールが「次の当たりを見ること」にすりかわっていたのです。もちろん変えたのは僕自身ですが、何かに突き動かされるように台から離れられませんでした。

最後は僕の微かに残った力でカードを抜き、それ以上打てないようにしました。そうでもしないと止められないような恐怖を感じました。

依存症は身近なもの

世の中には様々な依存症があります。そのいずれも最初はちょっとしたきっかけなんだろうと考えるようになりました。そのきっかけから自分のタガが外れ、依存症になるように感じました。

僕の今回の体験では、

「ちょっとやってみるだけ」

「当たるまでやる」

「負けた分を取り返す」

「次の当たりまで」

と変化していきました。

最初の軽い気持ちが、気がついた頃にはとんでもない方向に心が暴走しています。「次の当たりまで」なんて言ってたら、もう離れられません。

最後に

自分が報われた気持ちや普段の辛さを忘れさせてくれるものが依存症になりやすいように感じます。

普段何らかの辛さを抱えていれば、その辛さを忘れさせてくれるものが輝いて見えると思います。

「ちょっとだけ」

「これくらいなら大丈夫」

という気持ちになることも今回の体験で実感しました。そのような気持ちがコントロールできない状況も体感しました。

もし、本当にコントロールできなくなったら誰かに管理してもらう他はありません。不本意だとしても自己管理できなければ仕方のないことなのです。

 

今回の体験は非常に苦い体験でしたが、苦かったからこそ「良薬」にしたいと決意したのでした。

「甘え」について

精神疾患や日本人の精神を語る際にしばしば登場する「甘え」とそれらに対する考え方について考察します。

「甘え」とは何か?

まず「甘え」「甘える」を語る上で言葉の定義を明確にする必要があると感じましたので、ネットで調べてみました。

あまえる【甘える】の意味 - goo国語辞書

「甘え」というのは他者との関係を前提にした言葉のようです。確かに「親に甘える」「(誰かの)好意に甘える」という表現があることからも、この言葉が持つ「他者の存在」を理解することができそうです。

「誰に」甘えてるのか?

一昔前のネットでは「うつは甘え」という言葉を頻繁に見かけましたし、僕が中学生くらいの頃、「日本人の精神構造は甘えによって成り立っている」という論説文が国語の教科書に載っていたように記憶しています。今でも「~は甘え」とか「自分は甘えているのでは?」という文章をよくネットで目にします。

しかし、これらの文章において「他者」の存在を明示されないことが多いように感じます。例えば、「企業における精神疾患による休職者の増加」についての記事であれば、「他者≒職場の同僚や会社の制度」というように文脈から読み取ることができますが、一般的に精神疾患、育児などに関して「甘え」という言葉が出てくる場合、大きく2つの「他者」が想定できると考えました。

① 他者=「自分」である場合

個人的な見解ですが、「社会」や「世間一般」に甘えているように論じている場合も含めて、これに当てはまる場合は多いように感じます。

この言葉には「自分は同じ境遇を耐えた」という背景か「自分はもっと辛そうな人を知っている」という背景のどちらかが存在します。そして、「だから我慢しろ。頑張れ」という考えが明示的、暗示的に存在します。

この考え方に則り「甘えない」を具体化すると、「書き手(話し手)が受けた、または知っている以上の苦痛・不遇・不幸を耐え、乗り越えなければならない」こととになります。これはどう考えても理論的におかしい訳で、呪いの言葉のようにすら聞こえます。

この場合、書き手の妬みや嫉みが含まれているか、強靭なスパルタ式精神の持ち主なので、気にしないか、メンタルが弱っているときは距離を置く必要がありそうです。

なお、「社会」や「世間」というのは言葉は、自分とは全く関係ない相手との関係性を自分の都合のいいように構築して論じることができる魔法の言葉だと感じています。

② 他者=「理想の自分」または「模範的な存在」である場合

この場合では、「甘え」という言葉は自分に向けられていることが多いです。

「今日は風邪で休んでしまった。他の人はこの程度できっと休まない。甘えてる…。」というような思考は典型例でしょう。

こういう思考の場合、「特定の他者」は存在しません。存在したとしても、ある限られた状況のことしか考慮されていない場合が多いように推測します。

この背景には、「良いとこ取りした他者」または「理想の自分」との比較があると思いますが、まずそのような存在自体がこの世界ではなかなかありえないでしょう。

また、この思考において今の自分は「ダメな存在」になりがちです。自分のことを受け入れられない気持ちが「今の自分は甘えている」という言葉に置き換えられていないでしょうか?

自分の思考や気持ちを正確に捉えることは精神衛生上とても大切だと考えています。問題を取り違えたら、解決策も間違ったものになってしまうからです。

一度、自分が「甘えている」と感じる状況を書き出すことも有効でしょう。そこに一定の傾向を見出だすことが出来れば、それに対処することで少しでも気持ちが楽になると思います。

最後に

「甘え 名言」で検索したところ、山のように「甘えるな」「甘えを捨てろ」という言葉がヒットし驚きました。

確かに長い人生において、自分を叱咤しながら課題を乗り越える時期もあるでしょう。しかし、ずっとそれでは疲れてしまいます。

私がネットで目にしたように「甘えるな」と言ってもらえる機会はいくらでもあります。だからこそ逆に、自分に対しては「甘えてもいい」という言葉をかけることで自分を守ることも必要なように感じました。

 

人間だもの

「不安と憂鬱に対処すること」について

今、このブログを書いている僕自身が不安と憂鬱で押しつぶされそうになっています。自分の不安や憂鬱をなだめるために、この記事を書くことにしました。

辛いものは辛い

最近、とても憂鬱な気分が続き、仕事の不安も相まって非常に落ち込む日々が続いています。不安な気持ちや憂鬱な気分が晴れてほしい、と心から願っています。しかし、何かで「発散」しようとしても一時しのぎに終わるのがせいぜいで、その後さらに落ち込むことも珍しくありません。

生活に支障をきたす位の不安感や憂鬱感に襲われるのは辛いものがあります。「発散」してもうまくいかないのなら、別の方法で「対処」するしかないと考えるようにしてみました。

この記事では、自分が不安や憂鬱を感じている原因や対象を特定しようと試みることにします。

原因を特定してみる

一つ目は「天候」だと考えることにしました。梅雨でじめじめとしたこの季節。心身が健康な人でも不快に感じるのに、うつ病と長年付き合っている僕が太刀打ちできるはずがありません。おまけに、この記事を書いている時点で「台風3号」により気圧が下がっています。メンタルや頭痛に気圧の低下は大敵です。

これに対しては、部屋の環境を快適に整え、医師の指示通り服薬し、少しでも気分が下がるのを抑えることで対処することにしました。

 

二つ目は「調整役という仕事」です。これは断言できます。憂鬱で仕方ないです。

身近な人に嫌われることが怖い僕にとって、社内に無理をお願いすることで「嫌われたり、怒られたりするのではないか」という不安感と憂鬱感はかなり堪えます。

今までも板挟みに遭い、心が折れて休職を繰り返してきました。ただ、仕事においてこういう場面を避けて通れないし、もう休職を繰り返したくないです。

対策を考えてみる

そこで、被害を最小限に抑える対策を考えてみました。

①やるべき行動と問題を明確にして、不安や憂鬱を技術的な問題に置き換える。

②不機嫌は自分ではなく、僕が持たされている案件に向けられていると考える。

③なるべく相手に寄り添い、共感する。

④やるべきことは無心でこなす。

⑤ストレスが重ならないようにさっさと帰る。

感情を何とかするという漠然としたものより、技術的な問題や具体的な行動であれば僕のメンタルは耐えられそうだし、感情的な対立は避けられそうな気がします。

最後に

正直これらがうまく働くかはわかりません。これを書き終わった時点でもまだ不安や憂鬱感はあります。でも書き始める前よりかは幾分かマシになった気がします。

感情に真正面から向き合うより問題に向き合うことで、昔より一歩でも半歩でも先に進めるのなら、何とか取り組んでみたいと思います。

 

 

 

「ルーティン」について

数年前から野球のイチロー選手や水泳のマイケル・フェルプス選手など多数のスポーツ選手が取り入れているという「ルーティン」のについて考えてみました。

スポーツにおける「ルーティン」の意義

スポーツにおいては、コンディションを一定に保つことや、どのような状況下でも自分の能力を最大限発揮することが非常に重要です。

刻々とかわる試合の状況、プレッシャー、日々の体調、周囲の反応など、選手のパフォーマンスに影響する要因は沢山あります。それらに周囲に影響されず能力を最大限発揮させる手法として、「ルーティン」が構築されたようです。

「ルーティン」に着目した理由

そうは言っても、僕のような一般人にはスポーツ選手のような「ルーティン」を実行することは不可能です。日々トラブルやら突発的な出来事に追われ、そもそも同じ時間に寝て、同じ起きることすら難しい状況です。

でも、僕だって日常生活の様々な出来事に振り回されるのは避けたいところです。スポーツ選手みたいなレベルは無理でも、何か「エッセンス」を取り入れることはできないか、と考えるようになりました。

「逸脱」は不調のサイン

いつも通りにできなかったりやる気が起きなかったりする時、自分の調子がよくない時であることに着目しました。

メンタルが不調な時にまず苦痛になるのが、「入浴」、「歯磨き」といった自分のケアです。「風呂に入って、髪を洗って云々~」など、もう考えるだけでうんざりします。女性の場合、「化粧」や「化粧落とし」なども同じかもしれません。

でも、入浴しないと気持ち悪いですし、「清潔を保つ」という基本的な行為ができない自分に苛立ち、ますます落ち込んでいく。そして、他の事も出来なくなるという「負のスパイラル」に飲み込まれていきます。

「ルーティンを守る」のではなく、「ルーティンから外れていることに気付く」ことが心身の調子を整えるために役立つのではないかと考えたのです。

「代わり」を用意しておく

そこで「出来ない時」の為に考えたのが「サブルーティン」です。

「お風呂には入れなくても顔は洗う」、「歯磨きの代わりにマウスウォッシュで口をすすぐ」など、「出来ない時の代わり」を決めておきます。

「完璧ではないけど、何かできた」という達成感を持たせることで「負のスパイラル」から逃れる。また、「このくらいということは調子はかなり悪いな」という客観的な物差しになります。

普段の行動を思い出すのも良いように感じます。「○○が出来ない!どうしよう!」と焦りに飲まれるよりは「普段はこうしてたけど、今はこれが苦痛だな」と捉えた方が対策も打ちやすいように思います。

最後に

「いつも通りのことができない」というのは、想像以上に自分のメンタルにダメージを与えるように感じます。精神的に落ち着いているときに、「出来ない時の代わり」を考える時間を作ってみてはいかがでしょうか?

「1%でもできれば、やったことになる」し、「備えあれば憂いなし」です。

「善悪」について

またしても壮大なお題を選んでしまった…。

でも、これも僕の核となる考え方なのであえて取り上げることにしました。

万物はニュートラ

世の中には様々な物事や考え方、価値が存在します。

究極的な例は夜空の星々でしょう。人類が誕生するはるか昔から存在し、様々な過程を経て消えたり、ある状態に収まる。

星々の位置や活動はただそこにあるだけです。善も悪もない。

しかし、星々の動きを見て吉凶を占うことは古くから行われてきたし、今も朝の星占いに一喜一憂している方もいるでしょう。

自然現象や物事そのものは「ニュートラル」です。人間がそれに意味を持たせることによって善悪という属性が付与されるのです。

善悪は流転する

僕は自動車に関わるエンジニアです。自動車業界は自動運転に向けたうねりの中にいます。

自動運転に対する問題提起で必ずといっていいほどでてくるのが「トロッコ問題」です。

詳細はこちトロッコ問題 - Wikipedia

人間の善悪は、時間、属する集団、社会情勢置かれた状況等々(英語では"context")によって、いとも簡単にひっくり返ってしまうのです。

そう考えると「善く生きる」ということはとても難しいように感じます。

ぶれない軸を持つことが「善い」のか、状況に応じて柔軟に生きることが「善い」のか。

「悪」もまたしかりです。視点を変えれば変わってしまうかもしれません。

この複雑な社会において、「善悪を切り分ける」ことの難しさについて、じっくり考える必要があるように感じます。

最後に

昔、自動運転に関わる講演を聴講した際に、先程のトロッコ問題が話題になりました。

とある方の答えに感銘を受けました。

「自動運転がそのような究極の選択を迫られるような状況に陥らないようにすることをまず考えるべきです。」

 

「君子危うきに近寄らず」ですね。

「本質」について

ブログの最初の記事なのに大上段から振り下ろすような大仰なタイトル…。

でも、僕の核となる価値観なので最初を飾るに相応しいお題として選びました。

加藤一二三 九段は「本質」を見ていた

折りしも昨日、私が尊敬する加藤一二三先生が77歳にしてプロ生活の幕を下ろされました。その引退コメントをTwitterで拝見することができました。

私は将棋好きですが、コメント内の「将棋の本質を悟った」という表現には驚きました。さすが「神武以来の天才」と呼ばれた方。先生の頭の中には将棋の宇宙の深淵が見えていて、その果てを探究されていたのでしょうか。

"Happy"を自分で決める

 僕は「自分と自分に関わる人や物事がHappyな状態になること」を大切にしています。

「幸せ」ではなく"Happy"である理由は、「幸せ」という言葉に完全性を色濃く感じる一方で、"Happy"は「多少はマシ」というレベルも含むように感じたからです。あくまで僕の主観ですが…。

僕が3年前、酷いうつ状態で休職している最中にこの考え方を採用して以来、今のところ上手く機能しているように感じます。

そして、自分が主体となって”Happy”を選ぶ決断をするようになってから、結果を自分で受け入られるようになりました。過去の自分が今の自分のためにその時のベストを尽くして選んだ結果です。それが必ずしも今の自分が"Happy"ではない結果になったとしても。

ここで、「自分が主体となって」という部分が重要です。他者に自分の"Happy"を任せてしまうと、その他者に翻弄されてしまうからです。

「本質」とは「残ったもの」

うつ病を経験し、僕は「自分自身によるHappy追求に集中する」ことを決意しました。

集中するためには、何かを捨てなければならない。一つ一つ自分の中にあるものを捨てながら、日々"Happy"を実現するよう努力する。

余分な物事が切り落とされた「本質的な自分」が出来上がる日が来るのか、椎名林檎トータス松本の『目抜き通り』の冒頭のように「その答えは死によって齎される」のか。

日々精進です。

このブログを書くにあたって

このブログを始めるまでに、「ブログを書く」ということに挫折すること二回。

何となく始めてみては、何となくめんどくさくなって続かない感じ。

そう、「目的」がなかった。

三度目の正直ということで、今度はちゃんと目的をもって続けてみたい。

 

さて、肝心の目的はというと「物事の本質について分析し、考えた結果を文章にまとめること」。

目的の設定の理由は以下の通り。

①世の中の情報について精査し、分析していくことで、自分が生きていく上での本質的な物事をとらえたい。

②内省的な思考や分析により、自分のことをより深く理解し、自分が抱える生きづらさの尻尾をつかみたい。

③日頃、色々と思考してしまうことを文章にすることで、思考を手放せるようにしたい。

 

他者の閲覧や評価を気にせず、自分の考えたことをカタチにして手放せる場所として、ここに文章を長く綴っていけることを願います。