「本質」について
ブログの最初の記事なのに大上段から振り下ろすような大仰なタイトル…。
でも、僕の核となる価値観なので最初を飾るに相応しいお題として選びました。
加藤一二三 九段は「本質」を見ていた
折りしも昨日、私が尊敬する加藤一二三先生が77歳にしてプロ生活の幕を下ろされました。その引退コメントをTwitterで拝見することができました。
10歳のとき新聞の観戦記に触れ将棋の本質を悟ったわたくしが、天職である将棋に、最善の環境の中、生涯を懸け全身全霊を傾け打ち込むことができましたのは、御支援賜りましたスポンサー、将棋ファンすべての皆様おひとりおひとりのおかげに他なりません。幸せな棋士人生をありがとうございました。
— 加藤一二三@皆様に感謝申し上げます (@hifumikato) 2017年6月20日
私は将棋好きですが、コメント内の「将棋の本質を悟った」という表現には驚きました。さすが「神武以来の天才」と呼ばれた方。先生の頭の中には将棋の宇宙の深淵が見えていて、その果てを探究されていたのでしょうか。
"Happy"を自分で決める
僕は「自分と自分に関わる人や物事がHappyな状態になること」を大切にしています。
「幸せ」ではなく"Happy"である理由は、「幸せ」という言葉に完全性を色濃く感じる一方で、"Happy"は「多少はマシ」というレベルも含むように感じたからです。あくまで僕の主観ですが…。
僕が3年前、酷いうつ状態で休職している最中にこの考え方を採用して以来、今のところ上手く機能しているように感じます。
そして、自分が主体となって”Happy”を選ぶ決断をするようになってから、結果を自分で受け入られるようになりました。過去の自分が今の自分のためにその時のベストを尽くして選んだ結果です。それが必ずしも今の自分が"Happy"ではない結果になったとしても。
ここで、「自分が主体となって」という部分が重要です。他者に自分の"Happy"を任せてしまうと、その他者に翻弄されてしまうからです。
「本質」とは「残ったもの」
うつ病を経験し、僕は「自分自身によるHappy追求に集中する」ことを決意しました。
集中するためには、何かを捨てなければならない。一つ一つ自分の中にあるものを捨てながら、日々"Happy"を実現するよう努力する。
余分な物事が切り落とされた「本質的な自分」が出来上がる日が来るのか、椎名林檎&トータス松本の『目抜き通り』の冒頭のように「その答えは死によって齎される」のか。
日々精進です。
このブログを書くにあたって
このブログを始めるまでに、「ブログを書く」ということに挫折すること二回。
何となく始めてみては、何となくめんどくさくなって続かない感じ。
そう、「目的」がなかった。
三度目の正直ということで、今度はちゃんと目的をもって続けてみたい。
さて、肝心の目的はというと「物事の本質について分析し、考えた結果を文章にまとめること」。
目的の設定の理由は以下の通り。
①世の中の情報について精査し、分析していくことで、自分が生きていく上での本質的な物事をとらえたい。
②内省的な思考や分析により、自分のことをより深く理解し、自分が抱える生きづらさの尻尾をつかみたい。
③日頃、色々と思考してしまうことを文章にすることで、思考を手放せるようにしたい。
他者の閲覧や評価を気にせず、自分の考えたことをカタチにして手放せる場所として、ここに文章を長く綴っていけることを願います。